William S.
Burroughs

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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すべてはニューヨークで始まった
by masaru suzuki


1984年2月6日、バロウズの70回目の誕生日を記念してカーネギーホールでは{バロウズ・ザ・ムーヴィ}の上映に加え、バロウズ自身によるスピーチと新作{ザ・プレイス・オブ・ザ・デッドロード}の朗読がギンズバーグの紹介で始まった。ゆっくりと登場したバロウズは、そこで「大統領候補宣言」をした。2月6日はレーガン大統領の誕生日でもあった。 このバースデイパーティのことを僕が知ったのはファンジン{イーストヴィレッジアイ}4月号で、僕はそのパーティの1週間後ニューヨークに着いたことになる。パーティには「アメリカ文学界のドン」ノーマン・メイラーに「LSDスーパーエキスパート」ティモシー・リアリ、詩人ジョン・ジオルノ、そしてルー・リード、元ポリスのメンバーのスティングとアンディ・サマーズ、デイヴィッド・ヨハンセン、詩人ジム・キャロルが顔を揃えていた。「ヴァン・ゴッホの耳に死を」の真似をして左手の小指を詰めたとインタヴューで答えるこの風変わりな実験家がいまだに文化を創造する反抗精神旺盛な若者のあいだでグルであり続けるのは70歳になってもなおアンチ・エスタブリッシュメントな姿勢を崩さずにアナーキーな社会を描き続けるからだろう。パーティからほぼ2ヶ月後、クーパーユニオンの地下ホールで開催された詩の朗読会に現れたアレン・ギンズバーグはまるでアイビーリーグの哲学科の教授といった風貌でジャズミュージシャン、ドン・チェリーのギターに合わせて歌う姿は健康そのもの、若々しかった。{LSDでトリップした5時間めの詩}で若いファンを喜ばせはしたものの「NOW」であっても「WAS」(過去)を見ているような気になって刺激は微塵も感じられない。それに比べバロウズはまだまだ前衛に毒を含んだ「オールド・デーモン」だ。

グリニッジ・ヴィレッジにあるブリーカーストリート・シネマのアギイルームで{バロウズ・ザ・ムーヴィ}を観たのは春を想わせる暖かい日差しの一日で、クリストファーストリートは昨日まで冬眠していたゲイたちが一斉に目を覚ました勢いの派手なにぎわいを見せていた。ドキッとするディスプレイのSMショップのマヌカンはハイヒールや鞭を選ぶ客の応対に忙しく動き回り、すべてが生気を帯び蘇っていた。 パンクスやゲイらしき若者に退屈しているティーンエイジャーと40代・50代のヒッピーや小綺麗なジャケットを着た転向組の中年カップル、館内には流行を追いかける新しがり屋の客よりも根強いファンが多かった。フィルムは「アメリカの生んだ最も偉大な作家、ミスター ウイリアム・バロウズ」とローレン・ハットンが紹介するTVシーンで始まりバックには{星条旗よ永遠に}が流れる。メキシコシティで誤って女房のジョーンを撃ち殺した件でのギンズバーグの証言、それはヘヴィーなノイローゼに陥っていたジョーンが仕掛けたウイリアム・テルごっこで起きた事故というのもショックだが、この事件によって祖母に預けられたバロウズ・ジュニアの歩んだ人生、父親らしさのかけらもない父を敬愛し本物の「ビート」を生きることで肝臓を壊し廃人となって終わるのに僕は衝撃を受けた。彼は{スピード}という本を残した。僕の知る限りでは、もう一人、ケルアックの娘ヤンの場合もすさまじい人生だ。生前、父と娘は2回しか顔を会わせなかったらしいが彼女もまた自伝{ベイビー・ドライヴァー}を書いていた。本によると彼女は13歳でニューヨークで LSD 体験をして15歳でメキシコで妊娠そして流産を体験、ニューメキシコではヘロインと売春、アマゾンではアルゼンチン人に殺されかけ、アリゾナではマッサージパーラーで働いてベルヴューの精神病院行きとなる。どちらも凄絶なまでのビート的人生を送ったわけだ。爽快だったのは映画の中でやけに奇麗なパティ・スミスがバロウズは「ローマ法王に並ぶ偉い人。いくら讃えても讃えすぎることはない」と言ったこと。ヘヴィスモーカーでヘヴィードランカー、健康のためにオルゴン・ボックスを愛用してメタドン療法を「合法的なやり方」と言ってのける、まだまだ現役で不良をやり続けるバロウズ。リッツやエンターメディアやパンクロッククラブでリーディングをやって若者を喜ばすパワフルさには脱帽するしかない。
「Life Is One Way Street, No U-Turns」-- 私の人生は悪霊との闘いだ。真理を発見し気持ちよさを伝える「真の改革者」とはいつの時代でもボヘミアンの精神を持つトラヴェラーのことで、彼らは文化を創り若者たちの先駆者となって伝えていく。このとき僕はバロウズを追いかけてオンザロードを翔んでみようと思った。

映画が終わるとマクドゥーガルストリートは週末の混雑ぶり。まるでフェスティヴァルのような活気のなかエスプレッソが飲みたくてカフェ・フィガロのテラスで休む。 60年代ここに通ってきていたウイークエンド・ボヘミアンは姿形を変えてそのエキスを残しているのかもしれない。当時この辺りにあったカフェ・Wha?で歌っていた最後のビート詩人、ボブ・ディランは当時を振り返り「カフェには音楽が、空中には革命がみなぎっていた」と言っていた。