最前線の米兵、カナダを選択

3月2日、深夜、シルバーのマスタングに乗ったブランドン・ヒューイは、テキサス州フォートフード基地のゲートをやり過ごし、そのまま北東に向かった。彼の部隊は明朝、中東に向けて配備される。せっぱ詰まった18歳のヒューイは、「政府の石油のための戦争で人質になんかなりたくない。上官に軍隊を離れたいと話してみた。彼らはボクを軍隊から分けるつもりはなく、荷造りしてイラクに行く準備をする以外に道はないと断言した。これで望みは絶たれたと思ったので、何度か自殺も考えてみた」と、2月29日、見ず知らずの反戦活動家にE メールを書いた。

カーラジオのヒップホップのビートに心臓がドキンドキン脈打つヒューイは、17時間ぶっ通しで運転した。眼はずっとスピードメータを案じつつも、クルマを道路の脇に寄せたほうがいいんじゃないかとパニックに陥った。活動家は南部インディアナで3月4日に彼と会った。トランクの中ではヒューイの犬が絶えず寄り添うマスタングをインディアナポリスで隠すと、ナイアガラの滝の橋までの500マイルを活動家のクルマで行った。彼がクルーカットを隠すのにニューヨーク・ニックスのキャップをくれたので、カナダ国境の監視官はヒューイがトロントラプターズの試合を見に行く途中だと信じたはずだ。

ヒューイはその夜、 クェーカー教徒のカップルに連れて行かれたオンタリオ州セントカタリーナから、第四クオーターにニューヨークが盛り返してトロントを負かすのをTV で観戦した。彼は、戦争に反対してカナダで難民認定を願い出ている二人目のアメリカ兵だった。イラク占領がだらだらと長引き、兵士のなかのモラルが急低下して選挙後の徴兵の話が一段と熱気を帯びるとき、この疑わしき戦争に逆らう若いアメリカ人をカナダが今一度快く受け入れることになるのかどうか、彼らの事例が決めることになる。

一人目は、第82空挺部隊、第504パラシュート歩兵連隊所属の上等兵、ジェレミー・ヒンズマンだ。彼は妻のエンガと生後21ヶ月の息子リアムといっしょに1月3日、トロントに到着した。ヒューイとは対照的に、ヒンズマンは彼の部隊の内部から宗教上・道義上の信念に基づく良心的兵役拒否者(C.O.)として戦闘外の任務を願い出る長いプロセスに携わった。懇願を拒まれた後、ヒンズマンはイラク行きの命令に直面した。彼と妻は詰め込めるものをシボレーに詰め込むと息子といっしょにノースカロライナのフォートブラッグから北を目指した。

25歳のヒンズマンは何を覚悟でやっているか分かっていた。もし勝訴すれば、二度と再びアメリカを訪れることはできなくなる。もし負ければ、強制送還されて苛酷な刑期で監獄にまっしぐらだ。戦時中の脱走は重大な違反だ。脱走兵の最後の死刑執行が1945年とはいえ、ヒンズマンは罰則が息を吹き返すのを懸念する。「ブッシュ政権は先例のないことをそれはたくさんやってきている」と彼は特に言及する。それでもなお、カナダの聖域に逃げ込むのはどんな選択肢よりよさそうに思えた。「命令を拒否して自分の身柄を引き渡そうかとも思った、(先月、三等曹長カミーロ・メヒアがやったように)でも、彼らが僕の良心的兵役拒否者の申請をどう処理したかで、きれいさっぱり縁が切れるのか確かではなかった。とにかく、良心に従ったせいで投獄されてそれが当然とは思わない」

難民認定を勝ち取るために、ヒンズマンとヒューイは合衆国で根拠の十分な迫害の脅威を感じているという、極めて断固とした主張を証明しなければならない。さらに、カナダの入国管理と難民委員会の元委員が特に言及する、「犯罪訴追手続きは迫害ではない」と
難民法が明細に記すことだ。たとえば、中国の一人っ子政策。法律自体が迫害の形態だと考えられないかぎり、法を破ることでの罰則は保護の根拠とはならない。

今からおよそ8週間、ヒンズマンとヒューイの代理人、ジェフリー・ハウスがカナダの難民委員会に持ち出そうというのがこの種の論証である。国際法に従うほうを選ぶのと引き換えに、合衆国はこの若者たちを刑務所、あるいはもっと悪い事態に送りたがっていると主張することでハウスはどうしても戦争そのものを告発しようとしている。「兵士として考えられないようなこと、あるいはぞっとするほどひどいことをするより、カナダに来て闘うことにした。これは巨大な進歩だ」とハウスは言う。

ハウス弁護士は、二人の兵士には十分見込みがあると信じている。少なくとも一人の高名な専門家に出廷してもらおうと計画しているとのことだ。イラク戦争は違法であると非難しているイギリスの国際法専門家のひとりが候補になっており、現地での作戦は国際法を侵害し、正当化することはできないと主張してもらうのだ。彼によれば、過去の歴史のなかで、上官が民間人の子供を撃てというような、何か違法なことを命じたときに兵士たちが命令を拒否してきたのと同じ、正当な法的立場を
この依頼人たちは主張していた。

ハウス弁護士が知るかぎりでは、これまで同様のケースが一件だけ難民認定委員会で討議されたことがある。脱走したイラン軍兵士1名が、イラン・イラク戦争でクルド人に対して毒ガスを使用したくないという理由から難民認定を求め、カナダの裁判所は最終的に認定を許可する判決を下し、彼は滞在を認められた。

彼はまた、二ヶ月前にイギリスの裁判所が下した判決を引用するつもりでいる。チェチェン戦争に従軍させられるためにグロズヌイに送られてから、ロシア軍を脱走したロシア人徴集兵、アンドレイ・クロトフの判例だ。国際法が定める人間の行為に関する基本規約を侵害する可能性のある軍務に就くことを拒否したこの徴集兵に対して、裁判所は難民資格は認められうるとの判決を下した。

ハウス弁護士は、イラク侵略に対するカナダの立場が二人の立場を有利にすると期待している。当時のジャン・クレティエン首相は、戦争が国際法のもとで違法だと主張はしなかったものの、カナダは参戦しないと決断したからだ。 申請者が望めば、連邦裁判所の判決に対して上訴することもできる。移民大臣が介入し、拒否された申請者にカナダにとどまる許可を与える可能性もある。米国政府との関係を修復しようとしているポール・マーティン率いる現政府のもとでは、そのようなことが起こるとは考えにくいが。

ハウスには気持ちがわかる。
60年代後期、ウイスコンシン州マディソンの大学生だったハウスは、ヴェトナム戦争は間違っている、参加したくないと結論を下した。徴兵の通知をもらったその日に彼はカナダに向かったのだ。カナダには異議を唱えるアメリカ人に安全な聖域を提供する長い伝統がある。独立戦争の際の母国(英国)党、1850年の脱走奴隷制定法からの難民、南北戦争の大部隊から脱走するいわゆる「逃走者たち」、そして最も立派にヴェトナム戦争に逆らった6万人の男女と。

徴兵がないかぎり、当節、北の国境に人が殺到するとは誰も思わない。だがぽつりぽつりとした動きは間違いなく増加しかねなかった。先週発表された米軍調査表によると、兵士の72%が部隊のモラルは低い、あるいは非常に低いと報告する。一方、軍務につく兵士のあいだの自殺率は最高記録。昨年の4月から12月にかけ、イラクあるいはクウェートにて任務中に23人が自殺した。少なくともあと7人が帰国後に自殺した。

何千人かが急を要するほどではないにしろ、逃れる方法を求めている。軍隊からなんとか離れようと試みる補充兵からの質問に答えるG.I. Rights Hotline への電話は2001年の1万7千267件から2003年は2万8千822件に急騰した。一方、ペンタゴンはその数を確認しようとしないが、軍の代理人、活動家、ヨーロッパの報道機関は600人から1千700人の兵士がイラクでの任務を避けるために逃げていると見積もっている。大抵、地下に潜って合衆国でこっそり生きているらしい。長い期間に及んでも、無許可離隊の兵士になるのは、脱走する意志をはっきりと表明する、実際に他国で難民認定を申請するより、はるかに重大な違反を免れるせいだ。それでもなお、カナダでは反戦運動家の口コミが数日前に女性脱走兵が逃走中とのニュースのうわさを始めた。

カナダの国はイラク戦争に反対してきた。圧倒的な国民感情に支持された政府は連合軍への参加を正式に拒否した。だが、徴兵を逃れる人や米兵がカナダ国境で簡単に出頭するだけで窮地に陥った移民の資格に申請登録ができた時代から、この35年で大きく変わっている。「60年代には難民認定システムなどなかった」と元入国管理難民委員会のメンバー、トロント大学の法律学教授オードリー・マクリンは説明する。「カナダにやって来た戦争に抵抗する人たちは、どんな命令にも従うように要求されなかった。今は入国を許可するのに、きびしい1人ずつの申し入れと、もっと複雑で限られた制度がある」

また、自分が徴兵を逃れるためアルベルタに行った法律学教授ジョン・ヘイガンは、特にこう言及する。彼は最近「Northern Passage :ヴェトナム戦争に抵抗するカナダのアメリカ人」という本を書いた。「1969年まで実際にはドアは開いていなかった。そしてそれはとても地位の高い(高学歴者)犠牲者という情況においてだった。目下の難局に巻き込まれる人たちよりはるかに、はるかに地位が高い。プレッシャーは計り知れなかったし、長かった。変化したどれもこれもが、今は機能していない」

ヴェトナム戦争当時でも、合衆国の方針と国民感情はブッシュのように徴兵を巧みにかわした人たちより、軍隊に入ってからその地位をなげうった人たちのほうをよりきびしく批判した。現に1977年、ジミー・カーターが大統領に就任したその日に、彼が承諾した一律恩赦は脱走兵にではなく、徴兵を逃れた人にだけ適用された。ヒンズマンとヒューイは今日、同じ批判を聞かされる。「ボクのおじいちゃんは戦争に反対したし、ブッシュには我慢ならない」とヒンズマンは話す。「でも、しっかりした兵役の概念がある。ボクの名前をメディアで見るのは、少々恥をかかされたってことだろうとボクは思う」
なお、「契約にサインしたのだから、誰も倫理に適った基本的原則を捨ててはならない。兵籍に入ってから良心的兵役拒否者になることもあると
米軍が認めようとも」と下院はみなす。

入隊するよう勧誘するため、新兵募集員が、暑く乾いた彼の故郷、共和党員がわんさかいるテキサス州 サンアンジェロに電話したとき、ブランドン・ヒューイは17歳だった。
「大学へ行きたかったし、契約するとボーナスに5000ドルくれると連中は申し出た」と笑うと少年ぽい両頬にえくぼが見えるヒューイは当時のことを思い起こす。「それにそそられちゃったんだよ」。コンピュータプログラマーのヒューイのパパは息子が未成年のため志願による兵役期間の書類にサインしなければならなかった。そうして昨年の夏、高校を卒業してまもなく、この十代の子はケンタッキー州フォートノックスに向けてテキサスを出た。

ヒューイは銃剣、ライフル、手榴弾の訓練を受け、戦車の操縦をおぼえた。同時に、何のために戦争に行こうとしてるのか知るべきだと思って国事の教養を自分に仕込むことにした。「軍隊に入るまで、政治的見解は生まれなかった」と彼は話す。基地はどこでもFox News が鳴り響いた。しかしヒューイはAP やMSNBC の記事をオンラインで読むことにした。「サダムが大量破壊兵器を持っていなかったと知ったとき物事を疑うようになった」と彼は話す。士官たちに懸念を提起したが、考えることは彼の仕事ではないと忠告された。彼は良心的兵役拒否者の資格を申請することが選択可能だったことも知らなかった。彼の最初のひと月は過ぎていった、そしてヒューイはマスタングが買えるほど現金を稼いでいた。

12月半ば、フォートフードに出頭する頃には、正当な理由のない戦争について国際法がどう言ってるかを読んでいたので、彼はとんでもない過ちを犯していたと感じ取っていた。時が刻々と経過するとき、彼は従順に命令を遂行した、そして軍服に殺虫剤をスプレーしてバグダッドまで輸送される装備一式の荷造りをする。だが、夜にはネットで情報を読みまくる。そして彼がよいとは思えなかった戦争で兵役をつとめることからますます血迷って逃げたいと思うようになる。彼は戦争びいきの家族のところに戻れるとは考えなかった。現に、彼はカナダから家族に電話をしていない。

そうして、彼は見知らぬ人間を見つけた。ある夜、カール・ライジング・ムーアが新しい「南北戦争以前に自由州やカナダへの奴隷の脱出を助けた秘密組織」を要求するのを引用した文章を偶然発見した。ムーアはジョージW. ブッシュが砂漠に送ってしまった自滅的な兵士には自殺するより脱出するほうがずっとましなはずだと言っている。彼は大急ぎでサブジェクトに「やけっぱちの軍人をどうか助けて」と書いたEメールを送った。

ヴェトナム戦争中ずっと軍隊にとられた「洗脳された若者」で、それ以来の平和活動家と自分のことを説明する58歳のカール・ライジング・ムーアは、脱走兵を手伝うのは重罪にせよ、ヒューイの嘆願に応じないわけにはいかなかったと話す。ヒューイが荷物引渡のため出頭しなければならないわずか数時間前に、ライジング・ムーアがクエーカー教徒との手はずを整えた。ローズマリー・シプリクとドン・アレクザンダーがセント・カタリーナの二人の家にヒューイを受け入れることに同意したとき、それはまたもやデジャヴだった。二人は60年代後期、抵抗する人たちをかくまったのだ。「無知はクエーカー教徒の真価」とアレクザンダーは話す。「だからインターネットはよいものか悪いものか、コミュニティで論議が持ち上がっている。どちらが勝つかはわかりきってると思うがね」

ジェレミー・ヒンズマンもまた軍隊が大学への直通ルートだった。「ボクはファウスト的な契約、魂を売り渡したんだと思う」と彼は語る。彼は2001年1月17日に兵籍に入った。結婚したばかりで、先制戦争という方針をブッシュが決定する何ヶ月も前のことだ。 軍隊のきびしい訓練では他の人にまさり、仲間意識をエンジョイしたが、「基礎訓練が殺しに対する人間の抑制を全く押し潰すことであるのが明白になるにつれ、疑問を持つようになった」とヒンズマンは話す。ライフルの訓練では、「黒のまるい円のターゲットで取りかかる。それから円が上背部になり、上背部がトルソになる。わけなく標的が人間になる」
繰り返し唱えるのはもっと悪かった。ある日、銃剣訓練の最中に教官が、「芝生を大きくさせるのは?」と大声で叫ぶと、ヒンズマンは「血、血、血」と一緒になって応じる自分に気づいた。仰天して、「一体ボクは何してるんだ?」と自問自答した。

彼は禅修行の癒しを専門とする人間だった。2001年7月、フォートブラッグに到着したとき、「かなりニューエイジ」なのを発見して、最も満足がいったのがクエーカーハウスだった。彼と妻のエンガは2002年1月そこに通いだした。そしてクエーカー教徒の非暴力の哲学に安らぎをおぼえた。ヒンズマンは人を動かす力のある良心的兵役拒否者の資格申請を準備することにした。「不法行為を排除したいという大きな望みは今でもありますが、結局、人殺しは人殺しを不滅にさせるだけだと実感するに至りました。このように、私はやましくない心で軍隊の戦闘員としてつとめ続けることができません」と彼は書いた。彼は8月にそれを提出した。

10月末、軍は彼の申請を一度も受け取ってないと主張した。(ほぼ一年後に突然それが軍のファイルから見つかった)ちょうど部隊がアフガニスタンに展開されたとき、彼はもう一度提出した。申請が棚上げされてる一方で、彼はアフガンでまるまる8ヶ月せっせと週7日14時間シフトの罰として課せられる炊事勤務で働いた。昨年4月、カンダハルでの急な審問で、ヒンズマンが自衛権を主張して闘うのを認めたせいで申請は却下された。その月に彼の部隊はフォートブラッグ基地に帰還した。そして12月20日、イラクに向かって出発せよとの命令が下った。今回は戦闘でない任務が用立てられないのはわかっていた。そこで1月に彼と家族はトロントに逃げた。そこで彼らはクエーカー教徒にかくまわれ、アパートに移った。

上訴があれば何年もかかる可能性のある難民請求が決定される何ヶ月も前なのに、すでにヒューイとヒンズマンはカナダの反戦運動に取り巻かれている。3月20日、容赦のない寒さと小雨模様にもかかわらず、7000人の学生、労働組合、良心的平和愛好家、左派を連れだしたトロントの集会「The World Still Says No to War 」で、彼らはゲストとして特別扱いされた。
ヒンズマンは群衆に向けて話しかけた。これまでデモでスピーチする機会は一度もなかったが、サウスダコタの故郷の町ラピッドシティでは彼は高校の討論者だった。そして記憶に残ってる限り、彼は本の虫だった。集会は彼にエリアス・カネッティの「群衆とパワー」を思い起こさせた。それでどうすれば演説の雄弁なフレーズになるか知っていたと後に彼はコメントする。彼はデモ参加者にこう言った、「単なる時代の犠牲者だとか、命令に従っただけだとか、単純に主張することはできなかった。イラク侵略に加わっていたら、自分を犯罪的計画に共謀させていたことになる」

ヒューイは黙って彼の隣に立っていた。そしてともかく土砂降りもなにもかも吸収した。「こんなに大勢の人がこんな風に考えるとは全然知らなかった」と彼は後で言った。
「孤独を感じないのはいいもんだね」

▲参考資料:Soldiers Choose Canada by Alisa Solomon
villagevioce.com 06 April 2004
英ガーディアン紙 by Ann Mcllroy 13 April 2004