僕は殺人犯に会った。
同情からではなく 前にも増して死刑には反対だ。

KEN SHULMAN

なんて言って話しかければいいんだろ?彼らを人間らしく見せる写真を撮るには、彼らがやってしまったことを無視するにはどうすればいい?
僕の信念はこのプロジェクトで再三再四試された。僕は常に死刑に反対してきた。安全な席から遠い距離を置いて死刑は人間の最も基点となる本能のなごりと僕は判断した。それは司法やキリスト教的倫理体系や人が勝ち得た気高さといったものの対極にあるものだと思った。  

僕は殺人犯に会った。それぞれの事件、受けてきた教育、人種、理解力が違うようにひとり一人違ったが全員が共有するものがあった。人を殺したことで二度と再びどぎまぎしたり当惑する必要のない段階に、これ以上知らなかったことを知る必要がない段階に、誰かが処刑のためにこの独房棟から連れ出されるたびにひびが入って流れ出す他は時間が凍りつく段階に急に傾いたみたいな彼らを非凡にする何かがあった。全員が残念だという気持ちを感じさせる。  
彼らが犯した罪は忘れていない。数百ドルとタバコ300カートンのために十代のコンビニ店員を強姦して冷酷に殺害。3歳の女の子を拷問して殺害。5年に及び4人の女性を誘拐してレイプ後に殺害。強盗の最中に10代の少年少女を棍棒で殴り殺す。もしこれが自分の娘や妻や兄弟だったら.......確かにこの被収容者は死に値すると思うときがあった。彼らのほぼ全員がドラッグやアルコールに囚われの身で彼らが後日関わる犯罪と同じくらい口に出せない幼児期の虐待や無視や堕落の身の上話を語れることは百も承知だ。でも麻薬常用者や幼年期の犠牲者の全部が全部人の命を奪うわけじゃない。  
僕は司法には興味がない。仕返しなんてなおさらだ。彼らはルールを無視した。平然と秩序を無視した。僕は彼らが処刑をものともせず僕たちが殺人者になるサガ(飢え・愛・権力同様の)究極の誘惑に屈服したこと一線を越えたことに思わず陶酔した。今僕は以前にも増して死刑に反対だ。彼らに同情するからではない。彼らの多くはいいやつだ。でも僕が同情するのは犠牲者やその家族のほうだ。
僕が死刑に反対なのは僕たちの内にある未開なものを表に出すと思うからだ。同意することで僕たちは死刑囚監房で出会った人より難解で皮肉な分一層劣った人間になるからだ。愛する人を失った人たちはともかく司法制度は終結のためにあるのではない。遺族の慰めのために復讐や流血の欲望のためにあるのではない。刑事訴訟の原告は犠牲者の家族ではなく連邦の人民だ。法の維持のためにあるものが死刑は殺人を是認するばかりかその法律を堕落させる。
死刑執行で国民にこびる選ばれた役人によって、陪審からまた一つ死の有罪判決をもぎ取るために証拠隠滅するほど熱心な検察官によって当然のプロセスがきわめて多彩な方法で妥協する。犯罪の重大さではなく犠牲者の人種に合わせて刑罰の厳しさを改めることで、殺人に手を貸す共犯者・殺人に手を貸す地域社会・殺人に手を貸す州・殺人に手を貸す国家を作ることで、死刑がたとえ正しく処理されても(それはあり得ない)国民ひとり一人が軽く見られる。
いつもいらついてる「死刑コミュニティ」そこの陪審は次の貧乏な被告人を死刑囚監房に送るために選ばれてるに過ぎないから検察補佐官らが「オーライ」と互いにハイファイブの仕草をする。そして公選弁護人と弁護士は時間・睡眠・健康・キャリア・家族を犠牲に残りの寿命を刑務所で過ごすクライアントの権利を勝ち取る。10年20年一緒に過ごしてきた看守(死刑囚を好きになる場合だってある)が毒ガス攻撃や電気処刑への荷担を強要される。死刑はそれに接触した全員を悪に染める刑罰だ。この卑劣なドラマで唯一役割が伝えられてるせいで被収容者だけが安定して見える。彼らの役割は待つことだ。人を殺したことでどれだけ変わったか彼らにはわかっている。