I Am Sam

マイケル・マンの新作<Ali >も、次の標的はソマリアに弾みをつけるリドリー・スコットの戦争映画<Black Hawk Down >も、何を勘違いしたか悪のパワーと戦うホビットの姿にアメリカ人がテロと戦う自国の姿を重ねるピーター・ジャクソンの<指輪物語>も、大げさな売り込みは全部忘れよう。昨年末の映画のニュースは<I Am Sam >で見せるショーン・ペンの演技なのだから。

7歳の娘の保護を裁判沙汰にする知的障害者を演じるショーン・ペンはピュアな演技のせいで監督ジェシー・ネルソンの感傷的な脚本を免れ、逆上したTV スタイルの演出を免れる。サムの友人として実際に知的ハンディのある人びとが重要な役割を演じるシーンでは、話しぶり、目を余念なくキョロキョロさせる動作、瞬間止まる動きなどショーン・ペンは彼らと同等だ。
この変容ぶりもショーン・ペンなら別に驚くには当たらない。彼が固執する自発的雰囲気のせいでこの役柄が全くの即興?に思えても不思議ない。彼の演技には恩着せがましさもなければ、哀れを誘う悲哀感も、きざなところもない。映画のサムのようにショーン・ペンは同情や称賛を求めてはいない。
ショーン・ペンに気づき釘づけになる最初の映画、<リッジモント・ハイ>の葉っぱ好きのサーファーに始まり、<ステート・オブ・グレース>のおとり警官、<カリートの道>のこれがショーン・ペン!と驚きの弁護士(ゴールデングローブ助演男優賞候補)、<デッドマン・ウオーキング>の死刑囚(アカデミー主演男優賞候補)、<ゲーム>のコンラッド、<U ターン>のボビー・クーパー、<ギター弾きの恋>のエメット・レイと、どれも役者の卵の研究課題になりそうな仕事ぶりでも、サム・ドーソンは控えめながら<波止場>のマーロン・ブランドに並ぶ不朽の業績だ。
あまり顧みられない表現力で役に取り組むショーン・ペンだったが、この映画の彼の目は時々正常な視力の範囲を超えて非現実のものとなる。こんなことができる俳優は他に思い浮かばない。それに彼はまるで君のすぐ隣にいるようだ。この密接な感じが、<トレーニング・デイ>のデンゼル・ワシントンや<イン・ザ・ベッド・ルーム>の俳優全員の人の注意を引こうとする目立った演技に賞を与えたがるお偉方を恐れさせ、追い払ったに違いない。
映画の情況に気後れするような批評家には 多分ショーン・ペンの功績はわからないだろう。それに監督はめそめそした自責の念を正直な理解力から切り離すことに成功していない。あるいは極端な自己中心からアーティストの無私無欲を切り離すことに成功していない。ビートルズのカヴァーで強調しすぎのサントラは甘ったるくて鼻につく。監督があえてドキュメンタリーとして撮影しようとするシーンはショーン・ペンの創造性を侮辱するし、僕らの理解力を侮辱する。
<ケープ・フィア>のデ・ニーロのマックス・ケイディのようなショーン・ペンの信頼性には驚かされる。彼のチャレンジに、人気コンテストのために役を演じる俳優のそれよりずっとずっと信頼できる正直さがあるのは明らかだ。
監督としてのショーン・ペンは、<インディアン・ランナー>、<クロッシング・ガード>、<The Pledge >(日本ではなぜかまだ未公開、ジャック・ニコルソン主役)といつも最後にはセンチメンタルになるのに、俳優としては並はずれた冷淡さを保ち続ける。その職業に未来があるとして、俳優たちはこの先何年もサム・ドーソンを研究し続けようとするだろう。
彼がすごいのはありふれた人間の悲劇を今まで僕らが見たことないようなもので見せるところ。それだよ、言いたかったのは。

▲参考資料:NYPress Dec.27, 2001