RAYGUN 神話

自称「音楽とスタイルについてのバイブル」、カリフォルニアの音楽誌「RAYGUN」を知ってる人はすごい雑誌が現れたものだと思っているに違いない。少なくともアメリカではローリングストーン誌のクールな権威とスパン誌の作意あるヒップから抜け出す音楽雑誌を作ってるやつがいるという気持ちをそれは抱かせる。
「RAYGUN」をパラパラめくるとデイヴィッド・カーソンが生み出した作品に出くわす。大学で社会学の修士課程を終えると3ヶ月の休暇中サーフィンができるという理由で教師になり、たまたま受けたグラフィックの夏期講座をきっかけにグラフィックデザイナー兼アートディレクターになった元プロのサーファーがカーソン。サイン入りのオリジナルサーフボードやスポンサー、プロとしての興行など性急に絶頂を迎えたサーフィンの仕事後もウェストコーストのサーフ&スケート文化の一部であるカーソンは、雑誌「トランスワールド・スケートボーダー」、「サーファー」、「ビーチ・カルチャー」でデザインを手がけることになる。
「RAYGUN」はくまなく認識できるとはいえ、不明瞭と明瞭が交互にくる絵のようなグラフィック処理された言葉を創り出す。毎号デザインが変わる「RAYGUN」のロゴと決まったフォーマットなど見当たらない表紙の先は、ずれた縦列とくずれた字体の世界だ。写真は誇張されてるし表題はマックで処理したフィンガーペイント。目次もなければページ番号も見当たらず読者にとにかく飛び込めと挑ませる。それに読者という言葉はふさわしくない。カーソンが編み出した世界のイメージに参加する者は入口で先入観チェックされて展開する言葉とイメージの解読作業を求められる。集中すればするほど情報が取り出せた。 「RAYGUN」は他の雑誌と違って見える。その違いに参加者の知覚に働きかける奇妙な作用があり、彼らはそのせいで3ドル95セント払う。
たとえば、最近のエルビス・コステロのカヴァーストーリーでは製作でドジをやり一段落が何度も何度も繰り返される。残りの記事は蒸発!全然気にしないで読む人もいればカーソンがギリギリまで突き放したことをやってくれた!と解釈する人もいた。彼らは称賛の手紙を書く。なかにはコステロの天性の職業に対する深いコメントと深読みする人もいた。カーソンは意図して判読しにくくしているわけではなかったが、そういうところがこの雑誌の持って産まれたサガだった。
それがカーソン・RAYGUN の本質とはいえ、読みにくさや思いもかけぬこと、無頓着とか不注意の類でやったことが神話を産んでいる。しかしカーソン自身は読みにくさを切り札にすることに慎重だ。「ページの神話は偶然の産物。読みにくいものすべてが誤解されて誇張される。僕らは考えが浮かんだらすぐに受け入れる。いけそうならそれでいくってことだよ。でも的を得てるものは寄せ集めなんかじゃない。それを支える考えがある。でもそれをわからせるのは無理かなと思う。教わって身につけるワンセットになったルールに則っていないから」
カーソンの作品はなんか変で、挑戦的なことをしているのに時代に調和している。流行の作品には雑誌にはない冷静さの類がある。「RAYGUN 」にあるのは人間の素質だ。
ともかく「RAYGUN」は冒険を助け、その標的になる観客を「RAYGUN」の雰囲気に同調させる段階に乗り出した。エントロピーやカオス論の言葉のレトリックが90年代初めの意識を象徴した後、景気後退が左派・右派・中道に犠牲を強いらせてうんざりする自然界の崩壊を強調する。同時に、まるで象徴のように西側諸国の若者が丸ごと激しくストリートウェアやスケートパンクの価値観に巻き込まれた。そこへ「RAYGUN 」が登場して、カーソン・イメージを基礎にした広告に価値ありの創刊号を完売する。94年夏には創刊から18ヶ月にしては悪くない12万部を売り上げている。
雑誌の成功でカーソンには新しい仕事の依頼が殺到する。ナイキ、ペプシ、シヴォレー、シティバンクの広告で彼の特徴あるグラフィックのスタイルをしっかり主流の範疇に据える。目下、広告業者や製作者らアドマンは「デイヴィッド・カーソン」みたいな作品を捜している。映画タイトルでも働きづめの、アートディレクター兼タイポグラファー兼グラフィックデザイナー兼サーファー兼アーティストにとり、未来はバラ色だ。絶えず変化して時代を反映すればの話だが。

▲TAMA- 17 掲載、1995