チベット、ラサへ行った
by Keiko Hayashi

チベット、ラサへ行った。
少し前までは5人以上のグループツアーでないと入域許可証が出ないという話だったが、個人で、フリー(旅行社で、入域許可証収得、エアーチケット、宿泊先ホテル、ガイド、ドライバーによる空港送迎は頼んだ)で歩く事が出来た。その時々の政情によってチベット人との接触は駄目という時代もあったそうだから今は中国が規制をゆるめている時のようだ。
4/3早朝、成都から1時間半でクンガ空港へ着く。乗客の中には裕福そうなチベット人家族がいて、10代の男の子は僧侶のいでたち、楽しそうに携帯電話で話している。以前はチベット人は家族にひとりは僧侶にしようとしたと聞いた。タラップを降り、歩いて簡素な空港の建物へ。高度3.650m。しかし、この時点では、ちょっと、フラッとする程度。まだ、高山病の症状なし。ガイドのフォーさんとドライバーのヨーさんが迎えてくれる。2人とも漢人だ。フォーさんは重慶の出身、地元の大学で1年間日本語を習っただけとは思えない程、日本語うまい。
ラサまで、およそ1時間半。車は人ひとりいない荒涼とした岩山とヤルツァンポ川の間を行く。もう少しすると、花も咲き、緑も見えるそうだ。時々、チベット人の小さな村を通り過ぎる。屋根にタルチョ(祈祷旗、合成繊維でピカピカ)はためく家々、チョルテン(仏塔)、オポ(石を積んだ塚)、そして岩に描かれた階段(天国へ行きたい気持ちを表わしているそう)。遠くに雪を頂いた山々。今は雨期でないので、ヒマラヤも見えるらしい。
ネタン大仏の所で一休み。そこに丁度、チベット人男性ひとりとヤク2頭。フォーさんが「写真撮ってもいいよ」と言う。(ひとりの人間だよ、この人は。マダムタッソーじゃないんだから。遠慮しときます。)そのチベット人男性にあいさつして、また、車へ。しばらくすると、山裾にただ白い壁だけが長く続く場所を通る。処刑場だそう。壁はあるが簡単に中が見えてしまう作り。
いよいよラサ市内に入る。まずは漢人エリア、街並を見ていると、ここがチベットとは思えない。2階建ての同じような建物を「あれはアパート?」っと聞いたら、「ラサは夜遊ぶとこ、少ないからねー」と変な答えが返ってきた。後で判ったけど、ナイトクラブや娼婦のいる地域だった。主に客は漢人らしいが娼婦は漢人もチベット人もいるそうだ。
今、中国は"西部大開発"のスローガンの元、人々が西へ西へと移動している。ラサまで鉄道を(5000mの山あり、氷原あり)引こうとしていて、その労働者などもいっぱい集まっているそう。政府の移住政策でもある。重慶出身のおしゃれな女性フォーさんもしかり。初めてラサに来た時は、バスで来て、休憩で入ったトイレで高度障害で失神してしまったそうだ。(バスは上がったり下がったり、5000m級の山をいくつも超えてくるので)
そうこうする内にポタラ宮が見えてきた。丘にそびえ建つ威厳のある建築物。でも、周りはデパートや郵便局がある漢人の街。広場には中国軍の古いミグ戦闘機。私のホテルは宇拓路と聞いていたのでチベット人経営かと思ったら、漢人の経営、残念!従業員にはチベット人もいる。ホテルの前の宇拓路は道路工事中(多分下水道関係)、ムチャクチャにデコボコに掘り、ゴミは棄てられ、焼かれ、水は噴き出し、埃はすごい。日本人の私から見ると、ムチャクチャな有様。こういう工事も"西部開発"の一環なんだろうね、インフラ整備の。
荷物をおいて、ちょっと歩いてチベット人エリア(外へ外へと漢人エリアが広がる中、チベット人エリアは10分の1位かな)の光明商店食堂へ。客はほとんどチベット人。バター茶(3角、約5円)とトゥクパ(うどんのようなもの2元、約30円)を食べる。なかなか、おいしい。チベット人はこのバター茶を1日40杯位飲むと聞いた。昔はバター茶とツァンパ(ムギ)が主の食生活が、漢人の登場で食生活も非常に変ったそうだ。向かいのチベット人の男性2人に自分で作ったチベット語の単語、例文帳を見せると、なにやら見て楽しそうに笑っている。
食事をしたのはいいが、ちょっと、調子が変なのでホテルへ。小学校帰りの子供たちは、チベット人の子もスウェットの運動着姿。中国語の授業(同化政策)が基本らしい。(ニュースを見ると、今はチベット語の授業もあるらしいが…)街には学校に行っていない乞食の子もたくさん。歩けるようになるとすぐ、ものごいを始めるようで、小さい手作りの弦楽器を持った子が何人もいる。その元締めのチベット人もいる。チベット人は乞食にも、巡礼(旅に必要な食料と金銭全てを持たなくても大丈夫だそう)にも、僧侶にもきちんとお布施する人が多い。
ホテルに戻ると、高山病の症状が出始めた。吐き気(実際嘔吐2日間)、頭痛、発熱、倦怠感、チアノーゼとの戦い。滞在中ずっと(6日間)、続いた。酸素を吸い、紅景天(ヒマラヤに育つRhodiolaのお茶)を飲むと少し?はいいような気がするだけ。
動いた方が高山病にはいいので、6日間なんとか街を歩いた。街の中心ジョカン(大昭寺)は巡礼のチベット人がいっぱい。歩きながら大小様々なマニ車を廻す人々。五体投地をする人々。ボロボロの身なりながら、手にはお布施をにぎりしめ、「オム・マニ・ペメ・フム」(おお蓮の内なる宝珠よ)と唱えながらコルラ(時計廻りに祈りながら、歩く)する人々。信仰心の篤い、無私の祈りの迫力はすごい。その気がワッと私に押し寄せた。2階に昇ったら白人の若い男が幕の後ろに隠れ、膝を抱えて座り、階下のチベット人の祈りとマニ車押しながらのコルラの音に耳を傾けていた。でも、暗い寺の中の仏像などをよく見ると、ピカピカ、色あざやか。それは、中国による侵略、それに続く「プロレタリア文化大革命」の時代に紅衛兵によってムチャクチャに寺院は破壊された歴史があり、その後、再建された為になにもかも新しいからだ。
街から少し離れたセラ寺にも行った。1901-2年に河口慧海(歩いてネパール側から入った。スゴイ!)が仏教を学んだ寺だ。巡礼の人達は土埃の舞う参道に座って楽しそうに何か食べたり、マニ車を廻したり、編物をしたりしている。鳥葬がここで行われているそうだが、外国人は見る事は出来ない。(水葬もある)
オリンピック、WTO加盟に伴い、外国人に、また、都市の中国人(観光ブーム)にとっても、チベット、その他の少数民族のいるエリアはすごい観光資源だと気がついた中国にとって、チベットの寺は貴重な財産となり、独立運動、自治拡大運動(ラサの街には2つの刑務所と1つのキャンプがあるらしい)さえしなければ、僧侶も少しは必要という事のよう。
また、TVでは、EUの西部地区への投資を促すパーティの様子や、チベット人の生活が物質的に向上したという話題や、僧侶が集まっての会議などのニュースをやっていた。(チベット語の放送も短時間ある)多分にプロパガンダ的ではあるが、チベット人にとっても眼に見える経済的な変化の影響は大きいようで、街をあるいているチベット人の様子は表面上おだやかだ。脱出から50年、ダライラマを中心とするチベットの自治拡大運動(ダライラマは独立を求めてはいない)に対し、残念ながら、中国側が応じそうにはない。この対外戦略上、重要な土地であり(核配備)、観光資源、埋蔵鉱物資源などのこれからの経済にも重要な土地であるチベットを手放すことはなさそうだなーと、考えた。
腫れた脳で行動力のそがれた為と中国同化政策の為に、ラサにいながら、なかなかチベットに触れられないようなジレンマを感じた旅だった。