ジョン・セイルズのフロリダ、サンシャイン・ステイツ

熱心なタブロイド紙のファンはもちろん、冬になると南に移動する避寒者やリタイアー組、いかがわしい亡命者、軽装の旅行者にとり手っとり早い約束の地であるフロリダは常に生誕地ではなく行き先あるいは最後に残った掃きだめのドブだ。ジョン・セイルズの脚色はコンドミニアム、ゴルフコース、ダフ屋を培養するギフトショップのペトリ皿ほどのものでも、生粋のフロリダっ子という珍しい標本が映画「Sunshine State 」の顕微鏡から優しく綿密に観察される。
同時代のセイルズのほとんどの映画がそうであるように、ここでも横暴な過去が主役だ。賢明なティーンエイジャーとして25年前にプランテーションアイランドを離れたアンジェラ・バセット演ずるデズリーとメアリー・アリス演じる気むずかしいママ、ジューナスは近年の幻みたいなものでなんとか埋め合わせしようと努めるが、いやいやながらモーテル・レストラン業を営むイーディ・ファルコ演じる地元6代目のマーリーのほうはふたりとの関係を全く絶とうと考える。デズリーが住む隣の、大部分が黒人の活気のないホームタウンとマーリーが住む隣の、主として白人の活気のないホームタウンを消滅させて、それらをモール街と高価なゲートで制限する飛び地として戻すために構える不動産の巨船の形で前途がその醜い頭をもたげる。いやな記憶は豊富でも旅行者を誘惑する伝統に乏しいプランテーションアイランドは商工会議所が認めるスゴ腕がその先鋒を努める町を上げての海賊創始者の祝典 "海賊の日"によって代用品の遺産をでっちあげようと企てる。
「希望の街」や「Lone Star 」でもそうだったこんがらがったアンサンブルから成る物語はアルトマン風群像劇でも、都合の悪い細々したディティールで想像力豊かなこの事実上人種隔離する町の場合にはふたつのコミュニティの口述で伝える歴史で倍増した。時代遅れのドクター・ロイド(Bill Cobbs )がデズリーの愛想のよい夫(James McDaniel )に言うように、黒人に対する人種隔離政策のおしまいが実はこの地域のアフリカ系アメリカ人の団結を侵食して黒人が所有するビジネスを衰退させる一因となった、同時にマーリーのおいぼれ親父(Ralph Waite )が看護婦に暴言を吐くように、環境規制の到来が小さな会社を廃業させるのを助長した。
本当らしさに対するセイルズの忠誠心は常に繁雑な描写のバラバラな集まりと宙ぶらりんの脈略に向かいがちで時折、監督上の戦略がむだ骨に終わることになり、行き詰まりを見ることになる。彼の全作品と比較しても「Sunshine State 」は組立が偶然すぎた。あてどない道筋は不釣り合いの組立で野心的な実験の「Limbo 」後、とりわけまとまりがないように思える。
けれど、頑固で厄介なデズリーとテキーラで酔っぱらったつむじまがりのマーリーのふたりは反発エネルギーと幻滅という中年の交差点に立つとびきり上等に描かれ堂々と演じられてる人物だ。男運の悪いマーリーは柔和な態度の景観建築家ジャック(ティモシー・ハットン)といじらしくて不器用な逢い引きを始めると政治に触れてその人格がやや政治的に傾く。マーリーとジャックの自己保全の物理的作用からくる煮え切らなさや、母と娘がただ座って互いをじっと見つめるとき短時間停止するデズリーとジューナスの頑固な膠着状態など、「Sunshine State 」の観光みやげ用マグカップは知らぬ間に忘れられない瞬間で満ち満ちている。
映画全体は決して上等な部分の集計とは言えないまでも、部分部分ではたいていみごとで、常に事実通りだった。
こんな人間になっちまったというあきらめと、あんな人間になりたかったと悔やむセイルズ信奉者にはおなじみのテーマもある。

●TV ドラマで活躍中の俳優が多数起用されている。デズリーの夫レジー役のジェイムズ・マクダニエルとゴードン・クラップはABC の「NYPD ブルー」コンビだし、イーディ・ファルコはHBO のTV シリーズ「哀愁のマフィア、ザ・ソプラノズ」でマフィアのボスの気は強いが繊細な女房を演じている。また話題の刑務所内ドラマシリーズ「OZ 」でも女刑務官を演じていた。
▲ジョン・セイルズ作品:1980年「セコーカス・セブン」、83年「リアンナ」、83年「ベイビー・イッツ・ユー」、84年「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」、87年「メイトワン1920」、88年「エイトメン・アウト」、91年「希望の街」、92年「Passion Fish 」、94年「フィオナの海」美しいアイルランド伝説、96年「Lone Star 真実の囁き」、97年「Men with Guns 」、99年「Limbo 」、2002年「Sunshine State 」


インディーズのパイオニア、ジョン・セイルズ

ローリングストーン誌の80年代の映画ベストテンに選ばれた「セコーカス・セブン」を1980年に6万ドルで作ったときロジャー・コーマンの宣伝用映画の脚本を書いて稼いでいたジョン・セイルズは遠回りに80年代の"インディペンデント映画監督"という職業に乗り出す。大学を卒業した仲間が30代になって再会して60年代を回顧する映画は、ローレンス・カスダンの「再会の時」に影響を与えた。
セイルズは映画スタジオが企画をコントロールするのと引き換えに金を手渡すという通常の映画産業の慣例をわざと無視したまま、配給を続けるスタジオ以外の金を映画に用立てる。突然、目の前に誰の要求にも応じない、自分の作りたいものを作るやつが現れる。それは監督を志す者にとり、運と決断力があれば君にも君らしい君が見つけた重要な論点を扱う映画を作ることができるという実感だった。そんな映画のほとんどがハリウッドの主流から消えていたがスパイク・リーのような監督がなんとか自分たちの道義に忠実でいようと踏んばっていた。
けれどそれを売りに11年続けたセイルズの選択はユニーク、超保守的な映画会社が当然無視する実験的な主題にのめり込んだ。レズビアンと女性の自立に目を向けた2作目の「リアンナ」、1920年代の炭坑ストライキを扱う「メイトワン1920」、賄賂のために八百長試合をやり人生を棒に振る野球選手の話「エイトメン・アウト」、そして「希望の街」では市の議員の公金横領の陰謀が横行している衰退のニュージャージ市を扱った。これはアメリカの大都市の中心の窮状に無関心な10年続いた共和党政権の結果という綿密に組み立てられた批判で、目隠しされてる大部分のアメリカ映画から何百マイルも遠く離れた映画だった。映画の中でセイルズは市庁舎で議員どもが力を保持しようとするとやらなければならない汚い仕事を処理する修理工場の主人を演じている。首のボタンを外してシャツの袖を上腕までまくる、ニュージャージの友人ブルース・スプリングスティーンを思い起こさせる断固とした労働者階級スタイルだ。映画が扱うのは信じる人間と物事を皮肉に捕らえる人間のことで、皮肉癖はたちまちのうちに全住民に影響を及ぼして不幸なことにますます信じることを困難にさせてしまう。この10年の政治はセイルズが演じる皮肉屋に報酬を与えるものだった。
なによりもまず自分は作家と言い切るセイルズは「お前は何者か」と問い、その正体を明らかにする要因と、どうやって個人個人が地域社会と折り合いをつけるかに興味があった。
大学を卒業するとセイルズは合衆国のあちこちで最低賃金の労働をやりながら空き時間に偶然出くわしたまったく違った人物のことを書いた。彼の特有さはジャンルが異なるものを色々に使うその発想にある。たとえば「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」はコミュニティが直面するドラッグ問題を見るためにハーレムに降り立った黒人エイリアンという皮肉たっぷりなSF になっていた。そして、「メイトワン」にはボスに逆らって立ち上がった労働者を助けるために町にやって来た組合の代表というウエスタンの広がりがある。
偏見のない政治力学としっかりした筋書き、古典のジャンルを覆す彼の習性は妥協を拒否する誠実な映画作家としての地位を築く。ジョン・セイルズがやる前には ジョン・カサヴェテスがいたが、10年の終わりなき苦闘の末にやっと今、彼は映画資金を得られるようになる。

●TAMA- 8 掲載、CHILL 1992