BYE-BYE CORSO :
今年3月、NY ローワーイーストの教会でグレゴリー・コーソの追悼式が行われた。3百人あまりの参列者の中のパリのビートホテルでコーソと暮らしたハーシュチェル・シルバーマンや元ブロンディのヴォーカリスト女優のデボラ・ハリー、仲間の詩人に混じりスターダストを歌うパンクの女王パティ・スミスがいた。彼女は「グッバイ、コーソ」と囁くと手を振った。
パーティ・スミスがVILLAGE VOICE 紙に書いている。
ビートジェネレーションの華、グレゴリー・コーソが逝った。彼は名誉の墓にまつられることも死後の賛美や慰めとも一切無縁でいる。
私が彼に初めて遭ったのは大昔チェルシーホテルの前だった。オーヴァーコートを持ち上げてズボンを降ろすとラテン語の卑わいな語句を吐いた。びっくりした私の顔を見て笑いながら「あんたに尻を見せてるんじゃないよスイートハート、俺は世界に尻を見せてるんだ」と言った。
彼は本物の詩人だった。現実にせよ粉飾されてるにせよグレゴリーの伝説化したわるさや無秩序、無分別についての逸話を知る人は彼のよさ、良心の呵責や気前の良さについての逸話も知ってるはずだ。70年代初めに彼は私について好意的なメモを残した。多分私の生活空間が彼の新聞雑誌の山と古い靴、小便をしたカップで恐ろしいまでの混乱に似通っていたからだろう。特にセントマークスでの単調で飽き飽きする詩の朗読会の最中の反道徳的行為では私たちは破壊的なパートナーだった。叱られたにもかかわらずグレゴリーは後に引くな、前列に座る詩人と名乗る連中からもっと聞き出せと私に助言した。
彼は1930年ニューヨークシティで生まれた。若い母親に捨てられた少年は里親の家から感化院へ刑務所へと知らぬ間にずるずる漂流する。ほとんど正規の教育は受けてないのに彼の独学は無限だった。ギリシャ語、ロマン派、そうしてビート作家に迎え入れられラファエル・ウルソとしてケルアックによりナイトの爵位に列せられた彼はビートのプライドであり喜びの種、最も挑発的な良心であった。
アレン・ギンズバーグが死にかかってるとき枕元に座りじっとアレンを注視していたのを憶えている。「アレンは俺に死に方を教えてくれている」と彼は言った。
彼にさよならを言うため召集された私たちはホレイショーストリートの彼の枕元に静かに座る。その夜は予想外の対応で一杯だった。彼が知りもしない娘。遠くからのパトロン。彼を崇拝する若い詩人たち。そしてたまたま公共のTV がこの神秘的なタイミングを知らずに放送したロバート・フランクの映画<Pull My Daisy >、壁にはアレンのスナップ写真とあまりにもたくさんの夢を中断させたタバコの焼け跡が。
コートを持ち上げズボンを降ろすと最後の詩人の尻を露わにこう叫ぶ、「Hey man , kiss my daisy 」ああ、グレゴリー。
▲参考資料:VILLAGE VOICE 1/30, 2001(TAMA-30、掲載)