NEWSWEEK :

1960年、二流誌だった「ニューズウイーク」が売りに出ると「ワシントン・ポスト」をワシントンでNo.1 の新聞に育て上げたフィリップ・グレアムがこの雑誌を買収する。編集長に就任した当時36歳のオズボーン・エリオットが「コリアーズ」のスポーツ記者でシャープなウイットと鋭いニュース感覚の持ち主のマニングと「アートニュース」の編集長で大学で哲学を教えたこともある知性派のランスナーを抜擢して3人のまわりには自然と有能なライターとカメラマンが集まるようになる。
最初に取り組んだ大きな特集はアメリカにおける極右勢力の台頭に関するものでピッグス湾事件(キューバのカストロ政権打倒を目論む政府がキューバからの亡命者をスパイに仕立てて本国に送り込もうとした事件)が失敗に終わるなど事態は放っては置けない情況だった。勇気のいることだったが特集は世間の評判になり広告掲載の取消が相次ぐなかオズボーンは「ジャーナリストとして誰に恥じることもない責任ある仕事」との自負を持つ。
60年代を通して力を入れて取り組んだテーマにアメリカの黒人の公民権運動があり、63年の黒人社会に関する調査リポート、特集「ブラック・アメリカ」はJ.F. ケネディにも評価されて記事を讃える手紙が殺到するなど反響を呼んだ。キング牧師のワシントン大行進を支持した「ニューズウイーク」は、公民権運動の本格的な記事を読むなら「ニューズウイーク」だという考えが人々の間に定着していく。
また「タイム」が一貫してヴェトナム戦争擁護の立場をとっていたのに反して「ニューズウイーク」は戦争の縮小、アメリカ軍の撤退を支持した。70年代の女性解放運動、ウオーターゲート事件と苦戦を強いられながらもワシントン支局が数々のスクープをやってのけたおかげで生き抜いてきた(ワシントン支局長ベン・ブラッドレーの活躍ぶりは映画化された<大統領の陰謀>の中に登場する)。 退社したオズボーン・エリオットは「おごり高ぶることの愚かしさ、大胆さの価値、残酷であることのつまらなさ、自信を持つことの大切さ、そして何よりもユーモアを働かせることの大切さを学んだ」と語った。
90年代、すっかり世界の大雑誌になったとはいえ「ニューズウイーク」にはオズボーンの考えが色濃く流れると言われた。残念ながら2000年、物言わぬ最近のニューズウイーク誌の傾向として主張しない記者についての記事が載った。

▲TAMA- 2 掲載、1990