2 PAC AMARU

1996年9月13日、13発のうちの2発が胸に貫通して、2(トゥ)パック・シャクールは死んだ。

2パックは極端がすべて詰まったラッパーだった。温和で繊細かと思うと、次の瞬間には冷酷で、かんしゃくを爆発させる。 こういった取り合わせの起爆力が2パックを最高に危険なラップ・スターの座へ押し上げたのだ。ローリング・ストーン誌は彼のことを預言者と呼び、共和党議員ボブ・ドールは疫病神と呼んだが、どちらも的を得た形容だった。誰にも飼い慣らされない2パックは、アメリカに住む黒人男性にとって一つの神話を体現する存在だった。
「オレは若いニガを救済するんだ」とかつて2パックは言った。そして、自分のことをソウル・ジャー(魂の救済者)にかけて、ソルジャー(戦士)と呼んだ。

この呼び名はまさしく2パックにはうってつけのものだった。2パックは戦争の最中に産み落とされた子だったからだ。 戦争の発端は、アメリカの人種問題において重大な局面を示したある事件にまで遡ることができる。 きっかけは、1968年のオーシャン・ヒル・ブラウンズヴィル教職員のストだった。白人とユダヤ系が圧倒的な全米教職員連盟の組織員に、数千人にも及ぶ、黒人あるいはプエルトリコ系の貧しい生徒の親が対抗した。

この騒動に巻き込まれたのが、ノース・カロライナ州の家政婦の娘で高校を中退した21歳のアリス・フェイ・ウィリアムズだった。アリスはこの学校に通う生徒の叔母だったことから、教員が職場を放棄している間、代理教員として教壇に立った。
スト問題で双方が中傷と非難に明け暮れた数ヶ月後、かつてキング牧師が率いた公民権運動の連帯感も失われつつある状況にあって、アリスは新しいペルソナを獲得して生まれ変わる。ブラック・パンサー党の党員アフェニ・シャクールになったのだ。

アフェニはブラック・パンサー党の創立メンバーのルムンバと親しくなり、党員の間で頻繁に使われる「抑圧者の豚どもを殲滅せよ」という文句を、おとり警官が潜伏していそうなところでも頻繁に口走るようになった。 まもなくして散弾銃で武装した捜索隊がアフェニの自宅に踏み込んだ。容疑は、アフェニと同志20名が人種間内乱を画策しているというものだった。

仮釈放後、アフェニは妊娠した。父親はルムンバではなく、確定できないということだった。ところが、ともに起訴されていた同志らが転向し罪状を認めたため、再び身柄を拘束されることになるが、それでもアフェニは中絶を考えなかった。 大きくなりだしたお腹を叩いては、「これがわたしのプリンセスよ。この子が黒人の国を救うの」と アフェニはよく自慢したと聞く。

ブラック・パンサーが壊滅されかねない存亡の危機がかかるこの裁判で党を救ったのは、「ポケットにでも入り込めそうなくらい華奢な」このアフェニだった。自分で弁護士的な立ち回りをしてみせたアフェニは検察を逆に質問攻めにしてしまったのである。陪審員はアフェニにかかった156件の罪状をすべて20分以内で無罪放免と判断した。

その一ヶ月後の1971年6月、アフェニは男の子を生んだ。双子座に生まれたその子をアフェニは、古代インカ語で「輝ける龍」を意味する言葉にちなんでトゥパック・アマルと名づけた。これはまた、18世紀にスペインの植民地統治者に八つ裂きの刑に処されたペルーの反乱指導者の名前でもあった。1996年、ペルーの日本大使館を占拠した左翼過激派、MRTA( トゥパック・アマル革命運動)も同じトゥパック・アマルの名を掲げていた。彼らは有名なセンデロ・ルミノソとは異なり、できるだけ民間人を傷つけないゲリラ路線をとっていた。

アフェニはニューヨークのブロンクスに居を構えた。息子は聡明で、礼儀正しく育った。叱りつける時は罰としてニューヨーク・タイムズ紙を手渡し、一面から社会面まですべて棒読みさせるというしつけの賜物だった。2パックはいつも「遊びを持ちかける」活発な子だったとアフェニは言う。
しかし、生活は苦しかった。2年後に、妹のセキワが生まれると生活はさらに困窮した。セキワの父親であり、パンサー党員であったムトゥル・シャクールは、60年の禁固刑を言い渡される武装強盗への道をひた走っており、家族を支えるどころではなかった。 2パックの名づけ親のパンサー、ジェロニモ・プラットも刑に服していて 力になれなかった。唯一、家族の身近にいた男性がアフェニの愛人レグスで、レグスはハーレムの麻薬の元締めニッキー・バーンズとの付き合いもあったと噂される人物だった。のちに2パックが「あれがオレの中のヤクザの原点だ」と語っているように、2パックにはこのレグスこそが唯一の父性的な男性像となった。

この家庭に存在した数少ない贅沢は、たとえば、アフェニが図書館から持ち帰ってくるゴッホの「星夜月」の複製画などで、そうした絵は少年2パックの関心を何時間でも惹くものだった。あるいはアフェニが2パックをハーレムの劇団に入団させたのも2パックにはかけがえのない逃げ場になった。 やがて一家は、電算機処理の仕事を紹介してくれるという親類のつてを頼ってボストンへ流れ着く。ボストンへ着くとアフェニは刑務所にいるレグスに電話を入れるが、レグスがクラックの後遺症による心臓発作で41歳で他界したことを知らされた。
「まったく、泣く気にもなれなかったよ」と2パックは語っている。 「世の中をどう渡っていけばいいのか、それを教えてくれるおやじが欲しいって思ってたのに一人もいねーんだからさ」

しかし、代わりに2パックに与えられたのはアフェニの努力で実現した舞台芸術の名門校、ボルティモア・スクール・オブ・アーツへの入学許可だった。 ここで2パックはいくつかの出し物で主演をとるようになり、またラップに本格的に取り組むようにもなった。すでに自分の身の回りのことを詩という形で書き残すようになっていた2パックにとって、ラップは自分の人生経験を綴る日記のような意味を持つようになった。
「この学校で満喫した自由は、これまで感じたことがないようなものだった」と2パックは語っているが、高校課程の2年目が終わろうとする頃、近所の男の子がギャング抗争がこうじた撃ち合いで命を落とすという事件が起きると、子供たちの身の安全を考えたアフェニは夏休みをサンフランシスコ郊外のマリン郡で過ごすよう、友人宅へ兄妹を預けることにした。 間もなくしてアフェニはその友人がアル中リハビリ・センターへ入院したと知り、自分もマリン郡へ向かった。アフェニが現地に着いてみてわかったのは、平穏な郊外の住宅地と考えていたその地域が、マリン・シティと呼ばれる荒んだゲットーだということだった。 警察はこの一帯を単に「ジャングル」と呼んでいた。

90年にはギャングスタの主要人物、つまり、ドクター・ドレー、スヌープ・ドギー・ドッグ、イージーE、アイス・キューブ、アイスTなどがほとんどロサンジェルスに勢揃いしていた。不気味に徐行するカーステレオからは「ビー・リアル・ニガーズ!」というラップがこだまし、合い言葉は「ファック・ザ・ポリス」というわけだった。ギャングスタの作り手の多くが実は、善良でちゃんと親も揃ったしっかりした家庭の出身であったにもかかわらず、ギャングスタは売れまくった。黒人はもちろん、典型的な白人にも売れたのである。

そんな時、マネーBは「ジュース」という映画の主役のオーディションを受けてみると息巻きながらロサンジェルスに立ち寄って、この話を聞きつけた2パックもこのオーディションについていくことにした。マネーがオーディションを受けたのは、自分の犯罪を隠蔽しようと親友まで撃ち殺す冷血なちんぴら、ビショップ役だった。 だが、マネーではその冷酷さを演じるのに力不足だった。そこで、脚本をわしづかみにした2パックは「俺ならこの役は朝飯前だぜ」と言い放った。
「ふーん」とプロデューサーのニール・モリッツは言った。 「じゃあ、ちょっとやってみろよ」
そのあと目にした演技に、モリッツは文字通り、衝撃を受けた。
「ダイナミック、大胆、力強さ、惹きつけるような魅力と、いくらでも形容のしようがあったよ」とモリッツは語る。
撮影はハーレムで行われ、スパイク・リーのカメラを担当してきたアーネスト・ディッカーソンが演出を担当した。撮影がクランク・アップした日、モリッツは2パックを脇に呼び、その演技を称え、「君は十年後、とてつもないスターになってるはずだ」と言ったが、2パックは「十年後には、オレはもう生きてないよ」と答えるのだった。

その頃、ロサンジェルスではグレゴリーがインタースコープ・レコードとの契約をまとめていた。 その甲斐あって、ファーストアルバム「2パカリプス・ナウ」は50万枚の売上げを上げた。映画「ジュース」の公開後も「2パカリプス・ナウ」は売れ続け、2パック人気に突然、火が点いたのだ。

▲Vanity Fair 1997