CHECHEN:

6月21日深夜から22日にかけて、対ロシア・レジスタンスによる戦闘行為が発生。南部イングーシの各地で200人ほどが蜂起した。コストエフ・イングーシ共和国内相代行を含め、約60人が死亡した。この行動の背景にあるのは、2002年4月、チェチェンの隣国イングーシ共和国にロシアに近い元KGB 出身のジアジコフ大統領が就任したことだった。ロシアがチェチェンを侵略して4世紀が過ぎ、それが今も続いている。この強硬な力の行使は、常にロシア側からの侵攻であり、虐殺だった。

北コーカサスの戦争はロシアの支配を突き放すため200年のチェチェン人の苦闘にその原点がある。コーカサス山脈の山岳地帯、チェチェンは猛烈に独立心のある主にモスリムの人口によって占められる。それが災いして、独ソ戦争の最中、1944年2月にチェチェン人・イングーシ人が一夜にしてカザフスタンに移住させられる。チェチェン共和国は19世紀に帝政ロシアが侵略によって併合した地域で、人種・言語ともにロシアとは縁がない。併合後、今日まで石油、畜産物、兵役など、ロシアが必要とするさまざまな資源の供給源となってきている。

99年9月以降、ロシア・チェチェン双方の間で激しい戦闘が続き、チェチェンの首都グロズヌイは無差別爆弾によってほとんど廃墟となっている。最も憂慮されるのはロシア軍によるチェチェン市民への攻撃と人権抑圧、ジェノサイド。これは主に「掃討作戦」と呼ばれており、ロシア側が「テロリストをかくまっている」と判断した村落を包囲して、住民の10歳から60歳までの男性すべてを拘束、尋問した上、場合によっては多数を殺害するというものだった。ダチヌイ村では51人の民間人の死者が発見されている。

2001年9月11日以降、チェチェン情勢は複雑化している。「抑圧されている少数民族」というレッテルと「分離主義のテロリスト」のレッテルがその時々によって使い分けられるのだ。いち早くブッシュの「テロリストとの戦い」に支持を表明したプーチンは、中央アジア諸国とグルジアに米軍が駐留するのを許しもした。
2000年、大統領としてプーチンはその土地の支配を不動のものにすることに着手した。そしてロシアに忠信の政権の頭にカディロフを指名する。モスクワがチェチェン分離独立派を非難したグロズヌイ・スタジアムで2004年5月、カディロフは爆弾攻撃で殺された。
分離独立派は毎日、ロシア軍を狙った計画的攻撃を行ってきている。2002年10月、最も大胆不敵な急襲で、反抗者らはモスクワ劇場を占拠した。死亡した41人の分離独立派メンバーと129人の市民の大部分が、人質救出を強行したロシア軍によって使われた有毒ガスのせいで死んだ。

チェチェンに埋蔵する石油の存在と、その地帯の東に横たわるカスピ海への出入口という戦略的場所のせいで、戦争は悪化する。

▲参考資料:Aljazeera.Net22 June 2004