OBITUARY:

<死亡記事>ロック&ロールの殿堂入りが決まったクラッシュの表看板、ジョー・ストラマーが昨年12月22日英国サマセットの自宅で急死した。検視結果は犬の散歩から帰宅後の心臓発作で享年50歳。
英国外交官の息子ストラマーはトルコのアンカラ生まれでメキシコシティ、キプロス、カイロで少年時代を送る。全寮制の学校の壁の向こうから聞こえたバディ・ホリーの<Not Fade Away >でロックンロールに目覚めたのを死の一ヶ月前のローリングストーン誌に語った。「ぞっとするほど嫌な学校のぞっとするほど嫌な教室に入っていくと木製のばかでかいラジオからそいつが鳴り響いていた。蒸気機関車みたいに大事なものが動いて year スゲー!って言ったのを憶えてるよ」
十代で学校をやめるとロンドン地下鉄駅で大道芸を始めた彼はそこでニックネーム「ジョー・ストラマー」を手に入れパブロックバンド101ers を結成する。76年セックスピストルズが大きく花開くと「year スゲー!」と発してバンドを解散、パンク心のあるミュージシャンらとクラッシュ(新聞の見出しで一番ありふれた言葉がこれ)を結成した。 民族統一を擁護して政治的弾圧と闘う歌詞でパンクとレゲエとワールドビートのリズムを融合した唯一価値あるバンドとして広く知れ渡ったクラッシュは82年、<ロック・ザ・カスバ>の曲でアメリカのトップ20に躍進する。同年秋のお披露目US ツアーでは最多の観客を前に演奏、受けやすい3コードの集中打と政治的強烈さにストラマーの髪型モヒカンまでが郊外にまで浸透して将来のパンクロッカーに影響を与えた。
77年の<白い暴動>と79年の<ロンドンコーリング>はどちらもローリングストーン誌の「必須アルバム200」に挙がっている。<サンディニスタ!>、<コンバットロック>は最も印象的なパンクロックの目録として今なお有効だ。
クラッシュ崩壊後は87年アレックス・コックスの<ストレート・トゥ・ヘル>、89年ジム・ジャームッシュの<ミステリートレイン>に出演。98年にはエキゾティックとインターナショナルなリズムという彼のテイストを探るバンド、ジョー・ストラマー&メスカレロスを結成。3枚目のアルバムのレコーディングが始まったばかりだった。また2月2日、ネルソン・マンデラが18年間投獄された南アフリカのロベン島の刑務所のサイトで催されるエイズに対する啓蒙運動の一環、マンデラSOS 基金コンサートで主眼となるはずの曲、<46664>をU2 のボノとユーリズミックスのデイヴ・スチュアートと一緒に書いていた。ストラマーの家族は花の代わりにマンデラSOS 基金コンサートに寄付するよう求めている。

12月26日、肺炎の合併症で写真家ハーブ・リッツが亡くなった、享年50歳。ハーブ・リッツは87年のデイヴィッド・ボーイ、89年のマドンナ、シンディ・クロフォードを起用した名画「ヴィーナスの誕生」の再現など非常に多くの写真でローリングストーン誌の表紙を飾ってきた。70年代、80年代を通じ主としてイタリアの雑誌向けのファッション写真を撮影したリッツはトップクラスのファンション誌とカルチャー誌の表紙やトップデザイナーのダナ・キャラン、カルヴァン・クライン、ジョルジオ・アルマーニの広告写真、レーガン、ホーキンス、ダライ・ラマといった政治と文化の指導者の写真を撮って過去20年で最も尊敬され最も知名度の高い写真家になった。
とはいえ彼の作品の核となるのは人間の肉体を賛美するマサイ族の写真(94年の写真集「Africa 」)や89年の「Men/ Women 」での男女の肉体に関する見解だ。
ダンサーの写真やミスターユニヴァースのゲイのパートナーとの写真は文化人ポートレイトでの評判に人間の肉体の強靱さへの彼の興味を結合させるものだった。

▲参考資料:RollingStone.com 12/23、12/24、12/27 2002