FAX OF LIFE

ファクスの魅力のひとつはハイブリッドなテクノロジーにある。手紙を届ける電話、長距離コピー、視覚化された留守番電話、世界中に解放されてる可能性のある電子郵便箱。そして具体的な結果を生むという事実でもってもっとなにかできていいはずのファクスは空間に侵入してそれを凝縮させる素材だ。
イギリスの雑誌「FACE 」を含め世界中の雑誌で紹介された「Actuel 」誌(残念ながらすでに廃刊)の「ファクス・フォー・フリーダム」というプロジェクトは当局の防御を突破するファクスの能力で民主主義の弾圧、ポスト天安門の軌跡を追う仲間にメッセージや情報を送るよう呼びかけた。その政治的効果は参加した雑誌に掲載されたファクス仲間を遮ろうと動いた中国政府の敏速な対応によって推し量れる。
この精神に近いのが、もっとふざけた「Manifaxo 」という"世界をもっとましな住処にする"ためのチェーンレターの類で、世界中の友人、会社、報道機関に自分の思いつきを加えてファクスし続けた。とてもたくさんの言語に翻訳されており、当時のイギリスの首相メージャーやジョージ・ブッシュ(パパのほう)のファクスナンバーもリストに加えられた。
これを企画したノゼダールはファクスを、「世界のどこだろうが手に入れられるインスタント知識。世界をより民主的で率直なものにする手助けをするもの」とみなす。ある日、ノゼダールのファクスマシーンから現れた3フィートもの長さの魚「ファクス・オ・フィッシュ」は傑作だった。一体誰がそれをあちらこちらに送りつけているのかは定かじゃなかったが、発信元はフランスで、できもそれは素晴らしかった。 ファクス文化が広がり、もしかしてこれは過激な媒体なんじゃないか!と思えるようなものを描写するアーティストが増えている。新しいテクノロジーがすなわち過激と言うことではなかったが、理屈ではファクスは衛星にリンクした瞬時の伝達法というハイテク・グローバル意識を説明する完璧なヴィジュアル形式で、新たな美的感覚の意見交換と新しいアイディアの流通を組み立てる方法だ。現実にはサン・パウロ・ビエンナーレのオープニングを飾るデイヴィッド・ホックニーの作品のようにアート・ビジネスのからくりとして使われがちだったが、その一方でアート・ビジネスの制約を逃れ、私的なネットワークを組み立てるためにアーティストに割り当てられた道具にも思えた。
昨年(90年)サンフランシスコのテレイン・ギャラリーが70人のアーティストを招待して行ったファクスアートに捧げた展覧会「インフォメーション」はアート界の官僚主義を除くのはもちろん、キューレーターの独裁的な影響を除く方法にも思われる。その代わり作品はどれもA4 サイズ。 キューレーターのニッカスは、「見せているのはギャラリーに伝達された作品という情報」だとコメントしている。ハンス・ハーケのファクスはタイムリーに、そして政治的にテクノロジーを使ったもので、エイズを扱った展覧会への基金を拒否したアメリカのアートカウンシルの会長ジョン・フローメイヤーについての辛辣な言及だ。
世界をつなぎ、その距離を縮める国際的な言語としてのファクスアート。そして年中ありとあらゆるところからファクスが送られ続けるギャラリーといった素晴らしいアイディア。
日刊紙のコピー・ファクス、ファクス放送、あらゆる種類のミニコミ出版物の流通などなど..... マクルーハンではないが、それが何のために使われるようになるか誰にも予言できない。

▲TAMA- 5 掲載、1991