■日本は原子力データを差し控え
被ばくの危険にさらされる状態に放置した■NY Times
8 August 2011 by Norimitsu Onishi & Martin Fackler大津波が福島第一原子力発電所で継続する災害を起こしたのに次い
で、ほど近い浪江町の数千の住民が避難するため集まった。霞ヶ関から何ら指導を与えられない町役場は、冬の風が南に吹いて
どんな放射能放出も運び去るものと信じて、住民を北に誘導した。
原子炉4号機の水素爆発が大気中に放射線を噴出すると同時に三晩
のあいだ彼らは津島という地区にとどまった。津島では子どもたち
が外で遊び、若干の親たちはお米を炊くのに沢の水を使った。その実、風はまっすぐ津島に向かって吹いていた。おまけに町役場
は、放射能の放出拡散を見通すことを意図した政府のコンピュータ
システム(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム、
SPEEDI)がこれを予測して知らせていたことを2カ月後に知
ることになる。だが、その予測は、霞ヶ関の官僚主義者によって公に知らされてい
ない状態のまま放置された。責任、とりわけ批判を逃れようと努め
る文化が働いた。日本の政治指導者は初めはそのシステムのことを
知らなかった、そして後にデータを見くびる。避難地域をかなり広
げなければならないことや、事故のひどさを認めることに、どうや
らおびえたらしい。「12日から15日まで私たちは放射線レベルの最も高いという場
所にいました」と浪江の馬場町長は話す。浪江町は原発から約5マ
イルのところにある。彼と浪江からの数千人は現在、二本松という
別の町の仮設住宅で暮らす。「私たちは放射線の内部被ばくをそれ
は心配している。」情報の留保は"人殺し"と同じだったと彼は言う。
有害な情報を差し控えて核災害の事実を知らないとする傾向に日本
の官庁が関与したのを現政権と旧政権の官僚らが取材と公式声明で
認めてきている。せまい日本で高くつく避難の範囲を限り、政界に
影響力のある原子力産業への公然の追求を避ける目的と一部の人た
ちは言っている。原発が放射能を出し続ける限り、かなりの放射能
が国の食糧に滑り込んできている。当地の多くが政府の作戦行動を
事故と潜在する健康リスクの程度を見くびるものとみなすことで、
国民の怒りは強くなっている。重大局面を通じて菅直人首相に対して助言に転じた元原子力プラン
ト設計技師の空本誠喜(seiki soramoto)衆院議員は、緊急時環境
線量情報予測システム、またの名をSPEEDIとして知られたコンピュ
ータシステムの予測を差し控えるとして、政府を非難した。「結局のところSPEEDIのデータを隠したのは首相官邸です」と彼は
言った。「というのも、彼らにはデータが意味することを理解する
知識がなかった、そのため、このように国民に対して言うべきこと
がわからなかった。彼らは自分自身の安全のことだけを思った、 と
にかくそれを発表しないことが簡単だと考えた。」コンピュータ予測は当局が最初に国民から差し控えた幾つもの情報
の断片の1つだった。福島第一の6機の原子炉のうち3機のメルトダウン(炉心溶融)は、
3カ月のあいだ表向きは無視された。最も有罪を証明する自白のど
れかで、6月3日、検査官がテルル132を見つけたと原子力安全・
保安院は言った。テルル132の検出は津波の翌日(12日)原子
炉メルトダウンの隠しきれない証拠だと専門家はたしなめる、だが、
ほぼ3カ月近く世間に知らせなかった。惨事から3カ月の間、政府
は学校の校庭に差支えない放射線レベルをコロコロ変える、そして
福島の児童の安全に関して継続する混乱と苦悩の原因になる。
(6月6日保安院は1号機では電源喪失から5時間後の3月11日
午後8時にメルトダウンが起きていたという解析結果を公表した。)
(東電福島第一原発から約6キロ離れた福島県浪江町で3月12日
朝、核燃料が1000度以上の高温になったことを示す放射性物質
が検出されていたことがわかった。経済産業省原子力安全・保安院
が3日発表した。検出された物質は「テルル132」で、大気中の
ちりに含まれていた。原発から約38キロ離れた同県川俣町では3
月15日、雑草から1キログラム当たり123万ベクレルと高濃度
の放射性ヨウ素131も検出されていた。事故発生から2カ月以上
たっての公表で、保安院の西山英彦審議官は「隠す意図はなかった
が、国民に示すという発想がなかった。反省したい」と釈明した。
テルルの検出は1号機から放射性物質を含む蒸気を放出する「ベン
ト」の実施前だった。2011年6月3日23時09分 読売新聞)多くの自白のタイミングは、日本がIAEA(国際原子力機関)の会議
で事故について報告する予定にある前、IAEAの検査官が日本を視察
する5月末から6月初頭あたりだとわかる。単に、もはや事故の規
模を隠せないとの理由で、日本の原子力権力機構が本当のことを白
状していると批評家に匂わせる。7月4日、日本の原子力学者と産
業界の首脳部の団体、原子力協会は、「こういった重要な情報が、
海外の会議に備える資料のなかを除いて真相の後3カ月になるまで
国民に公表されなかったのはきわめて嘆かわしい」と言った。政府当局者は故意に国民を危くしたのではないと強調する。
福島県の中心地とどこかほかでは従事者らが原発の放射性粒子で汚
染された校庭から表土を除去している。 幾万もの子どもがこの暑夏
のなか校舎内に保護されている。たとえ窓は閉められているにして
も、マスクをしてる子がいる。放射能被ばくを追跡するため、多く
の子がまもなく個々の線量計を身につける。最近の政府による発表によれば、3月末に実測した福島の3つの地
域の1080人の子どもの約45%が甲状腺に放射能被ばくしてい
た。さらに進んだ検査を請け合うには被ばくレベルが非常に低いと
政府は付け加えた。日本の内外の専門家共に、政府の査定に異議を
唱えている、そしてチェルノブイリで継続して甲状腺ガンに苦しん
でいる人の大部分が、事故当時原発近くで暮らす子どもたちだった
ことを指摘する。首相官邸が所有する原子力災害マニュアルによれば、SPEEDIは放射
能飛散予測を作成するため1980年代に設計された。それは、疎
開者を放射能の煙から遠くへ誘導するために、少なくとも現地役人
や救急隊員に役に立つよう用意されることになっていた。そして確かに、壊滅的な地震と津波のあとの最初の数時間から、
SPEEDIは地図やほかのデータを大量生産していた。けれども文部科
学省は首相官邸にデータを提供しなかった、情報は不完全だという
理由でだ。津波は原発のセンサーを不能にしていた。原発から実際
にどれだけ放射能が漏れ出ていたかの測定がなければ、どこまで放
射能の煙が広がっていたか見積もるのは不可能なことだったと彼ら
は言った。政府は最初に原発を中心にして円を描くことに頼った、そして最初
の1.9マイル半径に入る範囲内の誰もを立ち退かせ、次に6.2
マイル、次に12.4マイル以内と、惨事の程度が明らかになるに
つれて円を広げた。だが不完全なデータであっても、放射能飛散レベルに従って経験に
基づく推測をすることでSPEEDIを活用するよう、政府に強く主張し
たと内閣官房参与(東大大学院教授)の小佐古氏は言う。それは避
難計画を手引きするために役立つ地図をますますもたらしていたは
ずだ。実際に、SPEEDIのコンピュータ上に放射能飛散のシミュレー
ションを書き続けるという、まさにその通りのことを行っていた。
ある地図は、最初に立ち退かせる区域を越えて原発の北西に広がる
原子力汚染の立ち上る煙状のものをはっきりと示した。しかしながら、SPEEDIに気づいたのちも、首相官邸は実績データを
公表するのを断ったと小佐古氏は言った。とうのも、政府はそのと
き彼らの予測が仮に後で問題をよびおこしても、高くつく避難の責
任をとりたくなかった。もっと広い避難区域は、何十万もの住民を立ち退かせるという結果
になり、すでに過密な国で暮らす彼らの住まいを工面するという結
果になる。特に地震後の早い時期に道路は閉鎖され列車は運休して
いた。ずっと多くの避難者の補償金を逃れるのに加えて、政府は原
発周辺区域からすでに移動した8万人以外は、避難を制限すること
に必死になった。SPEEDIの地図を公開するようにとの彼の死に物狂いの要請を、首相
参与のトップが無視したと小佐古氏は言う。それで子どもたちが危
険な放射能レベルにさらされたとの不安から彼は4月に辞任した。
(小佐古氏を官邸に招いたのは菅首相。原発事故発生後、首相は原
子力安全委員会や原子力安全・保安院と衝突を繰り返したすえに、
小佐古氏ら専門家6人を次々に内閣官房参与に起用した。)放射能の立ち上る煙状の方角を予測するのにシステムは有能だとい
うわけではないと、ある参与らは首相に主張する。内閣府、原子力
委員会を率いる近藤駿介委員長は、早い時期にSPEEDIが示した地図
は支離滅裂だった、また風向に応じて1日に何度も変わったと言っ
た。
(安全デマを流す御用学者と原発関係者を、作家の広瀬 隆とルポラ
イターの明石昇二郎が連名で東京地検に告発した。広瀬 隆:「"誰
が悪い"とは言いません、"誰が嫌い"なら言えます。ずっと昔から一
番腹が立っているのは鈴木篤之(前原子力安全委員長)です。あと
は近藤駿介(原子力安全委員長)です。この二人が両輪になって原
子力安全委員、原子力委員会を動かし、御用学者を集めてきた歴史
があります。廃棄物処理も、もんじゅも、あの二人が取り仕切って
ます。」)「役に立たないなら、なぜ公表する?」と、東大原子力工学の退職
した教授でもある近藤氏は言う。「どの方角に風が吹いていたか観
察する福島の現場の人間なら、まさに同じだけ知ってるだろう。」しかしながら小佐古氏などは、システムの多量のデータから振り分
ける方法を知っている人間にゆだねられて、SPEEDIの地図はきわめ
て役に立つものであったと言う。SPEEDIの読み取りは実に複雑だっ
た、そして放射能汚染の広がりの予測のかなりは、文部科学省と2
つの原子力監査機関(原子力安全・保安院と原子力安全委員会)、
この3つの別々の政府機関が扱いにくい問題と同様に、だれもその
結果に責任を引き受けたくなかったので、データを次々に回したと
いうように由々しきものだったと彼は言った。インタビューの中で、ほかの機関がSPEEDIの責を負うべきだったと
言って、内閣府と機関がそれぞれ責めた。委員長は取材訪問される
のを断った。浪江の馬場町長は、SPEEDIのデータがすぐに利用できていたなら、
町民は当然もっと安全な場所に避難したいと思ったはずだと言った。
「だが私たちには情報がなかった」と彼は言う。「それが腹立たし
い。」現在、二本松の組立て式仮設住宅にとどまる避難者たちは、津島で
大丈夫と信じて疑わなかったのでほとんど用心しなかったと言った。
トイレがないので放射線量がたぶんもっと高い地面の穴を頼りにし
たと、のざわようこ(70歳)さんは言う。「私たちは最悪の所にいました、でもそのことを知らなかった」と、
のざわさんは言った。「子どもたちは外で遊んでいましたよ。」隣人のおおたひろゆき(31歳)さんは、地震の際にTepco(東京
電力)の下請け会社のため原発施設で働いていたと言う。津島にも
とどまったのちに、今は妻と3人の子どもと共に一時的に間借りし
ていた。放射能被ばくについて、「今後ほんの何年かで影響が現れ
るかもしれない」と彼は言った。「子どもたちのことが心配です。」不信の種
ますます懐疑的な国民に加えて、批評家は納得していないように見
える。彼らは1950年代の水俣事件への対応と比較する。水俣病
は化学工場が西日本の水俣湾に水銀を垂れ流していた事実を隠蔽す
ることで中央官僚と経営者側が経済成長を守るためなれ合った国の
醜聞である。水銀は、その領域で暮らす幾千という人を神経の病に
至らせて、さいなまれる傷ついた犠牲者の写真を永続的に保存させ
た。「もし彼らが住民を守りたかったなら、すぐに情報を公表したはず
です 」と東京の立教大学社会学者で水俣病隠蔽事件の専門家、関礼
子(Reiko Seki)は言った。「水俣の経験にもかかわらず、官庁は
SPEEDIを公表しませんでした。」政府の再保証を信ずるのをやめて、保守的な地方ではとてもありそ
うもないことを近ごろ行ったと、原発から約40マイル西にある郡
山市の子どもの親たちの団体が言う。彼らは告訴した。彼らの告訴
が、郡山市に無理やり子どもをもっと安全な場所に移させることを
求めるとはいえ、心からの意図は、国の避難対応と国民の健康危機
に抗議することだ。原告の弁護士、柳原敏夫(Toshio Yanagihara )は、省庁はわずか
何年か後に明らかになる原子力事故の健康の結果から注意をそらせ
るために情報を差し控えていたと言った。「影響はただちに現れないので、彼らはあとでタバコだのコーヒー
だのがガンを引き起こしたと主張できる」と彼は言った。原子力災害のあと、政府は法定の放射線被ばく限度枠を年間1ミリ
シーベルトから20ミリシーベルトに引き上げた、それには子ども
が含まれる。実際上、以前の基準のもとでは禁じられてきた地域社
会に子どもを含め住民たちを暮らし続けるにまかせる。限度はのち
に年間1ミリシーベルトに戻されたが、校舎内にいるに限って子ど
もに対してのみ適用された。日本政府は、福島の住民の長期健康モニタリングと今後は適切な手
段を講ずることを考慮に入れていると国会議員で内閣府政務次官の
園田安弘は言う。郡山の原政夫市長は、 政府の放射線基準が危険と
は思わなかったと言う。市の3万3000人の小中学校児童を避難
させるのは"非現実的"だったと彼は言った。けれども郡山は政府の命令以上にした、国家の通達より先に学校の
校庭から表土を取り除き、文部科学省によって用意されるものより
厳しい検査基準を負わせる。「結局、日本人には高いレベルの知識がある」と市長は言った、「だ
から世間の人たち、とりわけ、福島のここの住民が判断できるよう
に、情報は正しく、すぐに、公表されるべきだと思います。」http://www.nytimes.com/2011/08/09/world/asia/09japan.html?ref=world
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