▼チェチェン戦争の報道記者、遺体で見つかる▼BBC報道

クレムリンによる、チェチェンに対する戦争の批判的な報道で知られる
アンナ・ポリトコフスカヤが、モスクワで殺害されているのが発見され
た。インターファックス通信は、彼女は集合住宅のエレベーターで射殺
されていたと伝えている。遺体の周辺には、4発の銃弾と、拳銃一丁が
発見された。彼女は2004年にも、飲み物に毒薬を混入され、殺害さ
れかかっている。(北オセチア・ベスラン学校占拠事件で現地に向かう
機内で)

ポリトコフスカヤ女史はモスクワの「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙に勤務
しており、ロシア軍による、チェチェンでの人権侵害についての報道で
知られている。

モスクワをベースに活動する緊急事態ジャーナリズムセンターのオレグ
・パンフィーロフ氏は、ポリトコフスカヤ女史が頻繁に脅迫を受けてい
たと話している。「アンナの身にいずれ何かが起こるのではないかと心
配していました。一番大きな理由はやはり、チェチェンです。ロシアで
最も誠実なジャーナリストは誰か?と聞かれるたびに、私はポリトコフ
スカヤの名が浮かびました。」

BBCによる2年前のインタビューの際、ポリトコフスカヤ女史は「脅迫
を受けても、報道を続けなければならないと信じている」と語っている。
「リスクは私のような仕事の一部だと考えています。ロシアでジャーナ
リストという仕事をしているからです。この仕事をやめることはできま
せん。私はこんな風に考えているのです。医者の義務は患者を治療する
こと、歌手の義務は歌うことです。ジャーナリストにとってのそれは、
現実のなかで自分自身が見てきたことを、書くことなんです。」

http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/5416218.stm

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▼モスクワの殺人▼ワシントンポスト 08 October 2006

昨夜、彼女のアパートの建物内で殺されたアンナ・ポリトコフスカヤは
ウラジミール・プーチン大統領のロシアで誠実なリポーターでいること
が危険なことを承知していた。けれども、プーチンが徐々に自分の国に
独裁主義を再び課すため甘い言葉と脅しを巧妙に使い分けるとき、2人
の子供の母である48歳のポリトコフスカヤは決して負けなかった。チ
ェチェンの分離独立派地域でのプーチンの卑劣な戦争についての報道で
あれ、モスクワの地元の自由の抑圧についての報道であれ、彼女は恐れ
ないのではないにしろ、屈服せず自由のままとどまった。

ポリトコフスカヤ殺害の犯人が公式に確認される見込みはまずないであ
ろう。ジャーナリスト保護委員会によれば過去6年間に少なくとも10
人ほどのジャーナリスが契約殺人の形で殺害されており、いずれの事件
も未解決のままだった。人権擁護活動家や親民主主義の政治家も、同様
の方法で襲撃されている。

だが、捜査するまでもなく、これらの死の責任が最終的にどこにあるか
を言うのは簡単だ。それはプーチンの下で育まれてきた残忍性である。
自らKGBのエージェントであった彼が不完全な民主主義を引き継ぎ、そ
の数々の機関を組織的に攻撃した。報道機関、政党、地方政府、民間企
業は徐々に去勢されていく。一番大切な価値がプーチンへの忠誠となり、
いかなる反対派も敵という名のレッテルを貼られ、破産や投獄、あるい
はもっと悲惨な道をたどっていく。一方で、醜いナショナリズムがその
繁栄を謳歌するのを許された。

同様の価値が、外交政策に反映されているのも見てとれる。ロシア南部
に接するグルジアの独立国家はプーチンの考え方に十分な忠誠を示して
おらず、西側諸国との連携を強め、民主主義国家でありたいと願ってい
る。このせいで独裁者はその国とロシア在住の何十万ものグルジア人を
脅かす醜いキャンペーンを始めた。これは危機的状況にある。

この問題に関して、ロシアは概して良い方向に向かっているというバカ
げた主張のようにブッシュ政権は最近まで内気で限定された対応しかし
ていない。ロシアの天然ガスに頼るフランスとドイツは、さらに臆病な
ことに完全に屈服している。このような非道徳的な実用主義に対して、
グルジアのような小さな国、アンナ・ポリトコフスカヤのような孤独な
英雄らの勇気は、燦然と光り輝いている。

2002年に国際婦人報道基金からその勇気に対する賞を授与された際、
「この仕事にはリスクがつきものである」と彼女は言った。そして「も
しあなたがこれ以上リスクを負うことができないか、リスクを負うのを
望まない場合は、そこから去るべきだ」とも言った。

4年前、彼女はこう結論づけた。「私に関して言えば、まだ疲れてはい
ない」と。

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自宅のアパートの建物内で暗殺されたとの悔しい悲報が伝えられるアン
ナ・ポリトコフスカヤは、常に死の脅しに曝されながらロシア軍に侵略
されるチェチェンの民衆の姿を伝えてきた。2004年9月の北オセチ
ア・ベスランの学校人質事件のときは、犯人グループと交渉するため現
地に向かおうとした機内で毒を盛られた。その際は一命をとりとめる。

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■第二のテロ事件

9月1日、ロシア南部北オセチア共和国ベスランの学校で起きた人質事
件は、330人以上の死者を出す最悪の惨事になった。人質の数や死傷
者数、犯人像など、ロシア当局の発表には意図的な情報操作が認められ
真実はいまだ明らかになっていない。 だが、事件の背後に、ロシアから
の独立をめぐり揺れ動くチェチェン問題があるのは確実だ。

事件発生当日、世界中の目がベスランの現場に注がれている最中「第二
のテロ」とも言うべき事件が起きた。その矛先は、一連のチェチェン報
道でユリシーズ賞を受賞し、新著「チェチェン やめられない戦争」が
日本を含め世界的ベストセラーになっているアンナ・ポリトコフスカヤ
記者(「ノーバヤ・ガゼータ」紙論説委員)に向けられたものだった。

■悲惨な人質惨殺が防げた可能性

チェチェン問題に関してロシア国内でプーチン政権批判に孤軍奮闘する
彼女は、現場に向かう機内で薬物を盛られ意識不明に陥ったのである。
チェチェン人から絶大な信頼を受ける彼女は、一昨年モスクワで起こっ
た劇場占拠事件の際に、犯人側からロシア政府との交渉役に指名された
ことで一躍有名になった。今回も彼女が現場に行けば、一昨年と同様に
仲介役に指名され、その結果、悲劇が回避される可能性もあった。

そんな渦中にある、病身のポリトコフスカヤ記者が、恐るべきロシアの
闇を勇気を持って語った。

■子どもたちを救わなくては、、、

北オセチアの学校で武装集団が人質をとって立てこもった9月1日。あ
の日は朝から忙殺されていました。とにかく現場に行ってテロリストた
ちと接触し、なんとか子どもたちを救わねば、という思いでいっぱいで
した。一刻の猶予もありません。

そのためにロシアの政治家と連絡を取り合い、ロシア当局に追われて地
下に潜伏中のマスハードフ(チェチェン独立派大統領、2005年3月
暗殺)の海外における全権を担うザカーエフ氏(在ロンドン)とも電話
で話しました。

彼は「マスハードフが行って彼らと交渉する。彼は、いかなる条件も、
身の安全の保障なしにでも、それを行なう用意がある」と私に伝えたの
です。

モスクワの空港に到着すると事件現場に一番近い空港に向かう便は運休、
近隣の町への便も次々に取り消されてしまいました。私は3回搭乗手続
きをしてもまだ出発できなかったのです。早くも怪しい雲行きでした。

■3人の秘密警察

そんななか、空港職員がやって来て「飛ぶチャンスはある。私が乗せて
やろう」と言うので、私は彼について行ったのです。その便は事件現場
からはかなり離れているロストフ・ナ・ダヌー空港行きでした。

飛行機にはほとんど乗客は乗っていませんでした。モスクワの空港には
ジャーナリストが多く、同じ方向に向かいたい人が大勢いたのに、なぜ
私だけが乗せられたのか不審に思いました。

いまにして思えば、朝から尾行がついていたのかもしれません。ただ、
毎日のように脅迫の電話や手紙を受け取っていたので、いちいち気に留
めませんでした。

機内にFSB(連邦保安局=KGBの後身機関)の職員が3人乗っている
のに気づきました。彼らは、搭乗の証拠を残さないため乗客名簿にも記
載されませんが、一目瞭然でした。でも、私は、何があってもベスラン
へ向かうのだと心に決めていました。

■一杯のお茶が、、、

その日の朝、息子と一緒に食事をしただけで、空港では何も口にしませ
んでした。ベスランまで丸一晩かかるということが頭にあり、食欲がな
かったのです。また、これまでのチェチェン取材で当局に妨害されたり、
逮捕された経験などから、機内食は絶対にとらないつもりで、念のため
に非常食のオートミールを持っていました。

夜10時頃のことです。スチュワーデスに紅茶を頼んで飲んだところ、
10分もしないうちに意識を失いました。

気づいたときには、私はどこかの病院のベッドに寝ていました。前方の
窓の外には、黎明の空が広がっていました。

これは後で聞いたことですが、到着したロストフ空港の診療室の医師た
ちは、努力してくれたそうです。

そこから運ばれたロストフ市立第一病院感染症部門の医師たちも、てい
ねいに治療を続けてくれました。ペットボトルを湯たんぽがわりにする
ような条件下ではありましたが、彼らは全力で瀕死の状態から私を蘇生
させてくれたのです。点滴や注射を続けて翌朝には意識を取り戻すこと
ができました。

■同僚記者も毒殺された

9月3日の夕方、ある銀行家の好意で自家用機でモスクワの病院に運ば
れました。

もちろん、警察の正確な検証がなされるまでは、同乗していたFSB職
員の犯行と断定するわけにはいきません。

介抱してくれた医師によれば、「不明の外因性化学物質」が前日の22
時頃(つまり機内で)体内に入り、それによってさまざまな器官が障害
を起こしたとのこと。これが現在判明している全事実です。

それ以外については現在調査中ですが、ともかく、このようにして私に
対する「テロ」は起こったのです。

思い起こすのは、私の同僚であったユーリー・シチェコーチヒン記者の
ことです。彼はプーチン政権下の汚職事件を数多くスクープし、チェチ
ェン問題に関しても、プーチン政権の責任を鋭く追及しました。

そんな正義感あふれる記者が、昨年7月2日に謎の死を遂げたのです。
ちなみに死因は、今回の私の場合と同じく、「外部から注入された正体
不明の毒物」でした。